Bittersweet in NZ

こんにちは、ウトです。家族とNZで暮らしています。移住して10年近くは、多くの怒りやフラストレーションを感じていましたが、おかげで行動・経験・学びができて、最近はおだやかな日々がとても増えています。いろんな変化の流れが強いので、大切なのは何か?ということにも向き合っていたい。ここには、体験や感じたことを言葉にしておきたくなった時に綴っています。 Thanks for being here.

「がん」かもしれないと言われて感じてたこと。(3)ヤングケアラーかもしれなかったから振り返る

最近「ヤングケアラー」という言葉を目にするようになってきた。
 
自分もそうだったのかな、とぼんやり思う。
 
***

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私が小3の頃のこと。
 
出産間近の母は、近くの大学病院にしばらく入院していた。
 
子供だったからその理由はわからなかったけど、遠くに住む父方のばあちゃんが来てくれていたのでうれしかったことは覚えている。
 
ある日、突然怖い夢を見た。
 
戦場のような焼け野原。壊れたビル。エレベータが降りてきた。
チーンと音がして開いた扉から、看護師さんが出てきた。赤ちゃんを抱いて。
 
「赤ちゃん、生まれましたよ。」
でも、その抱いていた赤ちゃんの顔は、
真っ黒焦げで、ブラックホールの闇のようだった。
 
バッとそこで目が覚めた。冬なのに、汗をだらだらかいて。
怖いけど、そのまま黙って学校へ行った。
 
学校から帰ってくると、ばあちゃんが慌てていた。
 
当時の子供の理解力だと、ばあちゃんが言うには
 
赤ちゃんが生まれる時に、医者が母のお腹の中を傷つけて、
出血多量で母の心臓が止まってしまった。
赤ちゃんも血の中でおぼれて大変なことになった。
でも多量の輸血で、母も赤ちゃんも命は取り留めた、ということだった。
 
ばあちゃんは、病院を訴えるとものすごく激怒していたけど
訴えたってすぐ体が治るわけじゃないと、父は訴えなかった。
 
そのうち、ばあちゃんは自分の家に戻った。
 
あの夢を見たから、実際見るまで密かに心配していたけど
初めて見た赤ちゃんは、しわしわでものすごく可愛いくて。安心した。
 
でも、退院した母は、産後ものすごく体調が悪かった。
輸血が体に合わないのだと言っていたけど、後でわかったことでは
子宮筋腫と卵巣嚢胞もあったんだと思う。
 
ある日、私が学校から帰ってカギのかかってない玄関を開けると、
台所の流しにすがるようにもたれて、苦しんでいる母がいた。
タバコを吸って、お腹や腰をさすりながら。
「苦しい、死にたい」と、繰り返して。
 
小3の私は、すぐに思った。
私が見ていることを、母ちゃんに知られたら絶対にいけない。
そして寄り道して後で帰ってくる弟には、何がなんでも知られたらいけない。
 
そうやって足音を立てないよう静かに、生まれたばかりの妹が寝ている布団に向かって、お世話をする日々が始まった。妹の世話、父の毎日のお弁当から食事の用意や家事雑事できることはとにかくなんでもやった。
 
体調が悪くない時もあったはずだけど、母がすさまじく悶絶するような痛みで、布団から起き上がれないほど苦しんでたのは、月の半分くらいはあったと思う。
本当は明るい人なのに。死にたくさせるほどに、痛みが母を苦しめていた。
 
 
その頃は、家族が困れば「長女が母親代わり」になることになんの疑問も持たれない時代。「やって当たり前」の時代。父が仕事で忙しいのだから、妹の世話と家事も「お姉ちゃん」がやるしかなかった。単純に、他にやる人が私しかいなかったのだから。
 
それに小学校では、ある知的障害を持つクラスメートが、私といると精神的に落ち着いて発作がでないので、その子と私を同じクラスや隣の席にする対応をしていた。それは中学を卒業するまで続いた。すごく心のきれいな子で、大人になっても交流が続いていたのだけど、とにかく子供時代は、学校でも家でも、人のために動ける優しい子と思われていた。
 
婦人科の病気に対する医療体制も認識も、全然進んでいない時代だったんだと思う。母は長い間、病院のいろんな科にかかっても、何が原因でそんなに苦しいのかが分からずにいたから。婦人科系器官か腸なのか。
 
やっと原因がわかって手術してもらえることになった頃には、母の子宮はお腹の上から触っても、乳児の頭大に大きくなっていた(通常は卵大)。
 
母が子宮卵巣全摘出手術を受けた時、私は二十歳になっていた。
 
小三から、10年ちょっと。やっと痛みの元を取り除くことができた。
 
10年の間に母は体が動く時もあったけど、しょっちゅうとんでもない痛みで起きられなかったから、父が疲れて仕事から帰ってきても、寝込んでいるわけで。
病人がいると家が暗くなる、と父が怒鳴ることが多々あった。
そんなんで、罵声は怖いしイライラだけでも家の中が暗くなるのが、妹と弟のためにも、ものすごく嫌だった。
とにかく家のことをやって、明るくしなくちゃ。小学生のころからそんな風に敏感に察知する癖は、元からあったんだろうけど、もっと深く根付いていった。
 
母親代わりなんて、別に大変じゃないことのように振る舞って
しかも好きでやってるくらいに、周りには見えていた。「偉いね」で終わり。
 
「やって当たり前」「できて当然」
=周りのことをいつも考える
=それが「お姉ちゃんの標準」
 
学校生活を楽しむのも、「お姉ちゃんの標準」をやった上で。
 
そのうち「お姉ちゃんの標準」をやり続けないと、自分のことを認めてもらえない。もっとはっきり言えば、いる意味がないという状態になっていた。
 
思春期には、母親代わりをやりたくなかったこともあったし
若い頃は、一番苦しいのは母ちゃんなのに、イライラして怒鳴る父ちゃんに反発心を抱いていた。
 
 
でも母は、自分が痛くてもがいている間に、私が何をしているのか何を考えているのかも知らなかったんだと思う。
 
母は妹が小さかった頃に、しっかり抱きしめてあげられなかったことを何十年も後悔している。
 
だけど私が子供の頃から家族のためにしていた世話は、お姉ちゃんの優しさで自然に「本人が好きで」やっていたと思っている。
大人になってそうじゃなかった、って打ち明けたことがあったけど、信じていない。わかってもらおうとするのは、すごく疲れる。だからすぐにあきらめた。もうどうでもいいや。
 
自分が年齢を重ねてきたら、仕方なかったんだと思う、あの頃は。誰も悪くなかったのだし。
母は、ものすごい痛みに耐えていたし、
父は家族のために、汗水流して働いてくれていたし、
私は弟と妹のために、どうしても暗い家にしたくなかったのだから。自分の気持ちはどこかに放り投げて。
 
とにかく、そうやって10年ちょっとかけてやっと母の病名がわかって
子宮と卵巣の全摘出手術をしたら、母ちゃんはやっと痛みから解放された。
 
だけど母はそれからは長いこと、
「もう女じゃなくなっちゃった」と寂しげに口にし、その度にそんなことないよと返す。本当にそう思ってたから。
 
***
 
子供の頃から家族のためにしてきたことは、自分でもやって当たり前だと長いこと思い込んでいた。私のした世話自体は10年ちょっとで終わったけど、思いグセは染みついたままだった。
 
最近「ヤングケアラー」の話の中に、「自分よりも『苦しんでいるお母さんのことを助けてほしい』と思っていた」っていうのがあって、すごく同感した。ほんとにそうだよね。
 
婦人科系の病気に対する医療が、進んでいなかった時代で
どうしようもなかったとしても、やっぱり一番苦しんで可哀想だったのは母だったから。
 
「ヤングケアラー」の家庭の事情は様々で、ケアがきょうだい間だと感情はまた違うと思う。それぞれに社会の大人が支援して「やって当たり前」から、早く解放してあげてほしいと思う。
 
今、
「当たり前だと思わないと、悪いことのように罪悪感を感じてしまう子」
「当たり前だと思って、助けを求める考えにも及ばない子」を
どうか見つけ出して、手を差し伸べてほしい。
 
 
大人になっても、母ちゃん辛かったね、と思ったのは
二人で昔の写真を見てて、弟の小学校高学年くらいの写真が見つけた時。
それを見た母が「あら、この時全然覚えてないわ」とつぶやいた。
 
あまりに痛すぎて、息子の成長の時を覚えていない。
それが、とても可哀想だった。弟の笑顔は、青葉のように初々しかったから。
 
母が身を持って教えてくれたことは、私が母親になるのに大きく影響した。
体力のあるうちに出産と育児をしよう。
家庭が明るくなるような、お日さまみたいなお母さんでいよう。
 
母の子育てしていた時代は、育児指導で母乳を与えずに粉ミルクを推奨していたらしい。だから私が出産した時に、母は母乳育児のことを全然知らなかった。
 
そうやって、出産後体のホルモンの働きを無視して、一律に粉ミルクに切り替えさせる指導をされたことが、その後長年にかけて、何かしら母の子宮や卵巣にも多少影響したんじゃないか、とも思った。それで、私は母乳を子供の欲しがるまで続ける間も、乳房と体調管理に気を配ってきた。
 
 
そんなわけで「子宮筋腫と卵巣嚢胞の痛みのすごさ」を、知ってはいるのです。
 
***
 
子宮内膜組織検査&子宮内膜全面掻爬術を受けるまで
 
最初にGPに診てもらってからずっと、月経過多治療のために
Primolut N (Norethisterone)「ノルエチステロン」という、女性ホルモンのプロゲスチン薬剤を飲み続けていた。
 
これって、他の人はどうなんだろう?
出血は止まったんだけど、なんか下腹部が重い。
血は出たいのに出られないから、子宮が腫れてきてるような感じ。
 
それなのに、内診後に多分出ますよと言われた出血が、増えてきた。。。
 
麻酔科のナースから、電話が来て、手術日決定の連絡と病状既往歴もろもろの質問をされた。(この前書いたのに)妊娠歴・タバコ飲酒・運動習慣とかも。
 
「(体がんの原因習慣)全然当てはまってないよね笑」とナース。そうなの。それなのに。
 
で、「手術日まで薬をちゃんと飲んで、出血を止めといてね笑」と念を押された。
(え?気合で?!)
 
電話の次の日は、これまた出血増して。
ヒヤヒヤしてたけど、内診から10日すぎにやっと血は止まった。
 
<勝手に「お母さん最強伝説」>
 
家族の中で「うちで一番元気で、強いのは、お母さん」という意見が
まかり通っているご家庭というのは、世の中に案外多いんじゃないだろうか。
そしてご多分に漏れず、わが家でもそうだ。
 
私は確かに子供時代の影響で、元気でお日さまのようなお母さんでいたいと思っていたし、これまで大きな病気もなかったし(できないという気合)、空気洗浄フィルターを変えるために、スパイダーマンのように屋根裏を這いつくばることもする。もう家族にとっては、とっくに最強レベルに位置している。
 
でも今回こそは本当に最強じゃないのよ。私の方こそ家族みんなの協力が必要になった。
だからちゃんと伝えなければならなかった。ママはガンかもしれない、ということを。
「ガンかも」って隠さずに言わないと、なんにもしない環境を作れないような気がして。
 
「コレコレこういうことで、異常に子宮内膜が増えてて、ガンかもしれないから、みんなで協力して家のことをやってね。」
 
わが家は、幸い大きめの子供達なので、自分達でもすぐに調べて(この細胞増殖勉強した、とか)冷静に受け止めてくれていた。
 
手術日が決まったので、一緒に活動している仲間にも、術後しばらく安静が必要になるから協力のお願いをしておいた。私がリードする活動と重なっていたから。
女性陣には、もう少し詳しく伝えたので、すごく励まして元気づけてくれていた。人生の先輩が多いからすごく頼もしかった。
 
それに同年代でNZ医療専門家の友達が、同じような更年期世代を過ごしていて、普段はげまし合えていたのも心強かった。
彼女の方が、ホットフラッシュ、めまい、だるさ不定期の出血その他色々、ずっとはっきりしない体調を抱えていた。
 
「やたらと医者達が早く早くと急かすから、けっこう深刻なんじゃないかな?」っていう不安を、彼女には、ついもらしてしまう。
 
彼女は「不調に気づいてから組織検査+手術までに、早くたどり着いたのはいいことなんだよ。」と、私が自分に向けてきたのと同じ言葉を、念押しのように投げ返してくれる。ほっとした。やっぱりさすがだな。尊敬する友達。「私のGPなんか、更年期障害ってことで片付けようとしてるのよ。検査ではっきりできるあなたが羨ましいくらいだよ。」と笑って。
回復したら、またごはん食べようねと約束した。  
 
まだかなまだかな、子宮内膜組織検査と子宮内膜全面掻爬術。
 
はっきりしなくて待ってるのって、もどかしかった。
 
早く検査と手術して、すっきりしたかった。
 
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リラックス。リラックス。
 

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